第3回(2003/04/14)

 とある喫茶店。今、僕の目の前にクシャクシャっと丸められた紙ナプキンが3つほど転がっています。その姿はなんとも哀れで、いや無残と言ってもいいぐらいの無駄な使われ方です。「紙ナプキンの正しい使用方法は、使用せず、そのまま丸めて捨てて下さい」みたいな。まぁ、あきらかに僕の使い方に問題があるとしても、やはり所詮紙ナプキンですからね、ホント申し訳ないけど。そんなことに思いを馳せている僕の斜め前には、これから同じ運命を辿るであろうケースにおさめられた彼らの同胞たちが、うらめしそうに、無言に等しい圧力で僕に語りかけてきます「・・・ナプ、ナプ」。いや、ナプナプ言われても。もし今僕がグラスの水でもこぼせば、君たちは一瞬にしてトロトロ、フニャフニャと昇天してしまうのだよ。グラス一杯の水は君らにとって原爆級だね。哀れ、紙ナプキン。

 紙ナプキンのこの受難の所以はどこになるのか?紙ナプキンの紙という字になにか粗末にしてしまうニュアンスがあるのではないだろうか?例えば紙ヒコーキ、落ちたって人は死なない、ほら!紙芝居、井の頭公園でやってるらしい、ほら!!紙まんじゅう、食えねえ、ほら!!!これが同じカミでも神だったら、神ヒコーキ、あっ落ちても天国に行ける、ほら!神芝居、皇居の芝?ほら!!神まんじゅう、食いてえ、ほら!!!じゃ、神ナプキン、ほら!!!!使わずに拝んでから、サイフにしまっちゃったでしょ!そうゆうことなんです。

 さらに極論を言ってしまえば、紙ナプキンが生き物ではない、命がないと言うところに紙ナプキンの哀しみと人間の愚かさがあるのです。もし紙ナプキンに命があったら、う〜ん、そうですね、仮にチョウチョだとしたら(まぁもうその時点で紙ナプキンじゃないんですけど)、とてもかわいそうで口なんて拭く気にはなれません。たとえ拭くことができたとしても、結果拭けてないでしょ、ほら、粉が、チョウチョの羽の粉が、こう口のまわりに、ねっ。あとチョウチョだから、ケースから取り出そうとするたびに飛び回って、なかなか捕えられなくて、まわりは、そんな客ばかりで、その中には網と虫カゴ持ってるオヤジもいて、みんな口拭くためにチョウチョを追っかけ回している喫茶店なんて、ある意味、もはやお花畑でしょ。ましてや、サンドウィッチでも食べてたらピクニックです。

 しかしそんなやりきれない感のある紙ナプキンにも、使用後の姿を美しくしてもらえるビックチャンスがあります。それは店員さんが美人もしくはカワイイ、ともかく僕がぽっとなるような女性の場合です。口を拭くにしろ、鼻をほじるにしろ、そんなことをした紙ナプキンをあの僕好みの店員ちゃんが素手で片付けるのかと思うと、ちょっとのいたたまれなさと、恥ずかしさで、使った紙ナプキンをそっとポケットにしまって店を出ようかと思ってしまうことさえあるのですが、まぁ、それはあまりにも中学生っぽいし、喫茶店に入って一枚も紙ナプキンを使った形跡を残さないのは彼女に中学生どころか、紙ナプキンも使えない赤ちゃんと思われてバブバブされそうなので、僕は新たに1枚、なんなら2、3枚、紙ナプキンを取り出し、それで使用後ナプキンを包み込み、きれいな、それはもう人間わざとは思えない美しい球体を作り、それをコーヒーカップの横にそっとそえて店を出るのでした。昔から球体には神がやどると信じられています。この時まさに紙ナプキンは、美しく、淡く光る恋の神ナプキンとなるのでした。

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